シンボリズム1

マンテーニャ・タロットにおけるシンボリズム

バランス・調和を求めて

立ち姿、座り姿と言った一連のポーズについては、それ単体での解説では不十分で、全体的な構成という観点なしに論ずることはできないでしょう。

全体集合写真を撮る際、皆一様に直立して一列に並ぶよりも、座る人、立っている人の二列で 並んだほうが全体としてのまとまりがつきますし、コンパクトに収まり利便性もよいでしょう。

ポーズ以外にもメンバー構成において、たとえば多民族国家の人々は、メンバーの中に必ず黒人やアジア人をひとりは加えるという工夫を、そうすることで全体的な調和が取れるよう配慮しています。いわゆる「バランスがよい」と一般的に言われますが、何につけ「偏り」よりも、「調和」が好まれるのです。(バランスと調和とは似て非なるものではありますが)

そんな観点からも、タロットの絵柄やホロスコープの座相を観てみてくださいね。

マンテーニャ・タロットのほうに注目してみましょう。


「立ち姿」の民と座する王

マンテーニャ・タロットのEグループE1~E10を観てまいりましょう。貧民からまで各階級に位置する人間の姿がⅠ~Ⅹまで、10枚並んでいます。

最後の3枚、Ⅷ「王」、Ⅸ「皇帝」、Ⅹ「教皇」の権力者たちは座り姿で描かれています。如実にパワーバランスを伝える配置もこのデッキの見ごたえの一つです。

絶対的な権力を象徴する 王座に座ってこその王。 マンテーニャのデッキにおいてはPAPA=ローマ教皇がその頂点にいる人。教皇は王よりも上なのだと知らしめる作品、そういうキリスト教会主導であった中世ヨーロッパの一時期を物語る貴重な芸術品でもありましょう。

この三名とわずかな札を残して、ほぼほぼに皆「立ち姿」の絵札となっているのが一連のマンテーニャの特徴です。

多くの札が象徴的な概念を擬人化して表した「擬人像」ですから、紙面を有意義に使って描き表すに際して、やはり「全身」をどのようにポージングさせるか、小道具として何を持たせるか(アトリビュート)、向き、周辺の図像や背景etc、画家の腕の振るいどころでしょう。座り姿にする場合は、それ相応の根拠があり、何にどう座らせるか、そう単純な問題ではなかったと思しき50枚の絵札です。

座り姿とはしかし、憂い(うれい)を醸し出すこともできる図像です。気のせいではないようなのです、Ⅷ「王」とⅩ「教皇」の間にいます、ため息が聞こえてきそうなⅨ「皇帝」の悲壮感。あちらを立てればこちらが何とやら、中間管理職の悲哀・・・どこの社会でも、どこの階層でも、上にも下にもなにがしかいるものですね。

わずかな座り姿の中で、下記9人のミューズを率いる天帝アポロでさえ、眉間にしわを寄せて憂鬱(ゆううつ)そうに描かれているのです。

一方で、最下位の札「貧民」のこの老人はどうでしょう?

杖に寄りかかりながらも、立っています。足元にまとわりつく犬にも動じません。権力者たちの力とはまた別の意味での「力強さ」がここには描かれているとも言えるでしょう。

静と動・・権威を表現するのに動的なイメージは不要

そういうことがわかってきましたね・・・座り姿の「愚者」を観たことがありません! ところ変われば数々の種別にいとまのない古今東西の「タロット」ですが。立ち姿という動的なイメージにこそ、希望と可能性が詰まっているとも言えるでしょう。


いつの時代でも、富める者に対して屈する貧しき者という構図が成り立つものでしょう。

が、しかし、財力などなくても、憂いることなどありません。あなたの「力」はあなたの中にあるのです。

あなたが引いたその絵の「立ち姿」から、しっかり希望と可能性を受け取ることなのでしょう。

引き続き、マンテーニャ研究を進めてまいりましょう。この世界、ひとりひとりが研究家です。


ちなみに、ボッティチェリの時代の七美徳の擬人像はすべて玉座に座り姿で描かれています。厳かかつ権威的な、より観る人にプレッシャーをかける、そんな美徳の擬人像です。イタリア、Uffizi美術館蔵。向かって一番左が「剛毅」です。

象徴で読むタロット

シンボリズム「支柱(コラム)と獅子」

マンテーニャ・タロットのB-36「剛毅」。支柱をへし折る女性。アトリビュートは獅子。仮面、甲冑にも獅子が。

シンボリズム「鏡」

マンテーニャ・タロットのB-34「節制」、B-35「賢慮」の二枚には「鏡」が二連発。

B-34「節制」

彼女の隣の右側では、イタチが地面に置かれた小さな丸い鏡で自分自身を見ています。イタチのという存在は、美徳の通常のシンボル・セットの中に見られないため、図像学的な文脈においてはめったに考慮されませんが、ここでは次のテキストを使用しています。純粋と王族のシンボルであるイタチは、貞操と節度に関連していることが多く、禁欲的であることが合理的なことであるということで、動物の姿に反映されています。


B-35「賢慮」 

賢慮とは、賢明な決定を下し、適切な手段を選択して、あらゆる状況で適切に行動を判断する能力を表します。通常それは鏡とヘビの属性で示されており、マタイの福音書10章16節「見よ、私はあなたをオオカミの中の羊として送り出します。蛇のように賢く、鳩のように穏やかになりなさい。」ここで、賢慮はわずかに異なる図像となっており、横顔の人物は、彼女自身を反映しながら、小さな翼のあるケルビムに支えられた鏡を手に扱うという女性的な側面を示しています。左側面の顔は、ひげを生やしたかぎ鼻の男性です。彼は手にコンパスを持っています、それはすべての行動が測定されたものであることを意味します。賢慮とは、経験から切り離すことができないことを示し、賢明な老人の気質を表すものでもあります。足元の左側には、逆境に立ち向かう知恵の象徴であるヘビと等価の小さなドラゴンがいます。古代における蛇のシンボリズムが、時間と経験であったということも思い出されます。未熟な者は、善が実現化する前提条件として自身に美徳が必要であることを認識するわけですが、背後から起こりうる危険を察知するためにもやはり美徳は必要になるのです。


以上、原書から抜粋。ILMENEGHELLOの書籍は、各札によってテキストの量がまちまちなのです。